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私たち親子も、カモなのだろうか。(1) [放課後等デイサービス]

U一郎とO次郎は、放課後デイサービス(放デイ)に通っている。


そこは、学齢期の障害のある子供の学童みたいなものだけれど、

「療育機能」も持っている点で、普通の子供が行く学童とは違う。


療育とは、「治療+教育」という意味で、

障害のある子どもが、より自立した生活を送るためのもの。


具体的に、何をするのかというと、

例えば、会話とか、コミュニケーションの練習や

日常の生活動作(着替え、スプーン、他)の練習など。


たいてい、その子供にとって、必要で苦手なことが選ばれ、

「療育」として教わることが多いんじゃないかな。


そして、多くの放デイが、そのホームページで、

「療育をしている」ことを強調しているように見える。


でも、この「療育」だけれど、

子供を放デイに通わせるお母さん達との会話では、

こんな話が出ることも、結構ある。



「本当に療育できるような人に、会ったことないよね。」

「そんなに療育の結果が出せたら、それ障害じゃないでしょ。」

「障害があっても、やれば、元々、ある程度はできるからね。」




ただ、そうは言っても、

「もしかして、子どもが、すごく改善するかも」

という期待をして、放デイで療育をお願いしたりする。


そして、その親の期待というのは、

本当に、とても切実であることもある。


「子供が、障害という個性を持って生まれますように。」

「将来、子供が、障害を背負う事故にあいますように。」

そんなことを願う親は、普通いないのだ。


いつだって、今すぐにだって、子供のために、

子供の障害が消えてほしいと願う親は多いと思う。


けれど、そんな親の気持ちの切実さに対して、

放デイの「療育の質や取り組みへの姿勢」は、というと、

驚くほど、低く、軽々しく、感じることもある。


さらに、放デイの求人欄や、スタッフたちの言動からも

見たくないものが、透けて見えることがある。


放デイに子供を通わせる親たちは、

放デイのスタッフより、年上の場合も少なくないから、

それは、ある程度、仕方がないのかもしれない。



結局、障害のある子供の親は、

その切実さな期待につけこまれ、

社会的な立場の弱さからも、

足元を見られているのではないか、

要するに、「一生、カモ」なのではないか。


そんな言葉を、つぶやく親だっていた。




ただ、放デイの「療育の質や取り組みへの姿勢」は、

スタッフだけのせいか、というと、そうではなく、

むしろ、放デイのオーナーが、放デイを始めた動機や、

放デイで働くスタッフに対する給料や待遇などにも、

大きく関係しているのではないかな。


それは、どんな業種でも、普通にありえることだから。



自分から、勝手に、ここまで書いたのだけれど、

今日はもう、これ以上、書くのは、よそう。


何か、耐え難いほどに、気持ちが重くなってしまった。



   







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